朱子学が政治・為政者のための学問になった理由
有名中学入試問題で発見する「江戸時代の日本」③浅野中学
■儒学の流れ
朱子学は儒教の一派です。そもそも儒教は古代中国の聖王・尭、舜、周の政治を理想(の時代)とする思想です。
覇道ではなく「徳・仁・(身分年齢の上下も含んだ)礼儀・祭祀を重んじ従い、自らそれを修め実践して生きることを目標とした」という感じですね。
そして「周」の国が最もそれに成功して素晴らしい治世だったので理想とされ、「周(特に建国~最盛期)の政治」を見習い、乱世を平らかにしようとしたのです。
紀元前500年頃、春秋時代の孔子が開きました。この儒教に関する学問が儒学です。
儒学は孔子以来、一本で連綿と続いていると思われがちですが、歴史的に見ると実は「漢~唐の時代まで」「宋代以降」の2つの流れに大別できるんですね。
どういうことかと言うと、解釈や学問の仕方がかなり変わったのです。
宋の時代以前、特に漢~唐にかけては「漢唐訓詁(かんとうくんこ)」、いわゆる「漢学(かんがく)」と呼ばれる学問の仕方でした。
五経や論語の訓詁注釈(=古字句の読み・解釈)を中心とし、儒教の聖典たちを「正しく理解するため」のやり方です。
ここで「論語」について少々。
おや?論語が別枠になっていますね。でも漢~唐代はそうだったんですよ。
なぜなら「論語は漢代初期にやっと集大成されたもの(であろうとされてる)」だからです。
戦国時代は楽経も含めた六経が重視されていましたが、楽経は早くに失われ五経になりました。そして唐の太宗が「(儒学で最重要なのは)五経=詩経・書経・易経・礼記・春秋」と決めたことの影響は計り知れなかったでしょう。
論語は孔子と弟子たちの問答集=孔子の考えや言動が最もわかるというこで、成立当初から「五経と並ぶ」儒学の重要テキストと目されていました。
しかしあまりにも基本中の基本すぎて、重要以前の問題だったと思われす。
なにしろ中流以上の家庭では閭学(りょがく)・社学・学館(今の小学校のようなもの)で、既に児童に「シェー・アル・シー・シー・ツ(学んで時に之を習う…)」と論語を丸暗記させていたのですから。
平仮名を覚えるぐらいの感じだったでしょうから、聖典以前の感覚でしょう。